シタール奏者チャンドラカント/プロフィール
シタールはインド文化の大使です
チャンドラカント・サラデシュムクの活動はこれまで各国のメディアで取り上げられてきました。以下に翻訳・紹介するのはインド音楽ウェブサイト "The Music Magazine " に掲載された インタビュー記事 ( 2002 年 11 月 18 日)です。インタビュアーは米在住のチャック・ウェズリー (Chuck Wesley) 氏です。
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♪小さなシタールを手に♪
問い : どのようにシタールの演奏を学ぶようになったのですか?
チャンドラカント・サラデシュムク :4歳の時でした。すべてをお話しましょう。4歳で演奏を始めたのですが、シタールのような難しい楽器を演奏するには早すぎる年頃ですね。でも、私の父親はスピリッチャルな人物で、見る目がありました。彼は私の中にある才能を育てようと望みました。そこで、彼は私の兄たちや姉に音楽のレッスンを受けさせるようにしむけ、家の中に音楽的な雰囲気をこしらえたのです。
私は彼らの仲間になりました。家に帰ると、歌のバック演奏をするタンブーラをかき鳴らして曲を練習したものです。父は、真剣にそれを見ていました。それから、ある時、私が、あまり強くかき鳴らしたものですから、弦が切れてしまいました。それでも私は、片手で弦止めをもち、もう一方の手で弦を奏で続けました。すると、父は私の力で弾けるように1・5フィート(約 46 センチ)の小さなシタールを作ってくれたのです。父が最初にシタールでドレミを教えてくれました。そのシタールは今でも持っています。ですから、私にとって、父が 1 番目の師(グル)であり、 2 番目がウスタード・クルシド・ミラジカル師、 3 番目がラヴィ・シャンカール師、そして4番目がシャンカール師の夫人であり、彼の不在時に教えていただいたアンナプルナ・デヴィ師なのです。デヴィ師は、ウスタード・アラウッディン・カーン師の娘でかつ、ウスタード・アリ・アクバル・カーン師の妹でもあります。
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問い :シタールに慣れるにはどれだけかかりましたか?
チャンドラカント :先ほども言いましたように、 4 歳で何も知らないうちに始めましたので、すぐに慣れたのは言うまでもありません。座るのにも、手を置くのにも困難を覚えることはありませんでした。そのときから、私の身体は座る姿勢に適応してきたのです。
♪師との出会い♪
問い :シタールをやめようと思ったことはありませんか?
チャンドラカント :偉大な名人たちのいる世界で苦闘をすることになり、若かった私は何度も苦しみを乗り越えてきました。実を言うと、少年の頃、私は「天才児」として有名になっていました。スケジュールはいっぱいで、きつかったです。インドじゅうや、海外からも偉い人やすぐれた人がやってきて、子どもの私の演奏を聴くのです。自分の役目は父に従うだけでしたから、それらの人々がだれであるかわかるはずがありません。父が私を呼んで、「シタールを演奏しなさい」と言うので、演奏をしていたのです。それが終わると、シタールをしまって、その場を離れて友だちとおはじきで遊ぶのです。
実際、1963年にラヴィ・シャンカール師が私の演奏を初めて聴いたのも、この通りだったのです。師は、ベテランの歌い手、ヒラバイ・バドデカルに連絡し、彼女の家で特別に私のリサイタルを行うよう求めたのです。師は演奏を聴くと、私を弟子として受け入れたいとおっしゃいました。そして、「この天才少年は神の恵みにより、偉大なシタール演奏家になる」と述べた証明書を書いてくれました。
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師は、その晩、私の町プネーで大きな演奏会を行う予定でした。晩になると、私は弟子としてステージまで師のお伴をしました。その後、ボンベイの先生の家で、ウスタード・アラウッディン・カーン派の同門として、先生と私を結びつける公式で伝統的な「紐の儀式」がとりおこなわれました。先生の証明書と弟子入りで、私の人気は一段と高まりました。子ども時代には問題にぶつかることはありませんでした。ずっと賞賛ばかりだったからです。難しかったのはその後のことです。アーティストとしてのキャリア上の苦しみは、 14 年間、師とアンナプルナ・デヴィ師の下での修業をしたあとにやってきました。
しかし、神や先生たちのおかげで、私は残る人生もきっと演奏し続けると確信していますし、やめることなど考えてもいません。
♪真の知識を得るには♪
問い :演奏を始めたとき、どのようなシタール演奏家を尊敬していましたか?
チャンドラカント :もちろん、インドの伝統で呼ぶところの私のグルです。つまり、シタール演奏での私の最初の模範は、ラヴィ・シャンカール師であり、アンナプルナ・デヴィ師です。私はいつもお二人から最上のものを得ようと務めていますし、それを聴衆のみなさんにおわけしているのです。
問い :ほとんどの演奏はシタールがうまくなるうえで師の助けを必要とするのですか。それとも、自分で学ぶことができますか?
チャンドラカント :インドの文化、伝統によれば、師なくして真の知識は得られません。師とは、行方を指し示し、知識という道をどのように歩いていくかを教えてくれる人のことです。長い経験から生まれた彼や彼女の言葉は、生徒にとって価値あるもので、どのような本やほかの学び方よりも、理解しやすいのです。
問い :これまでどんなアーティストとコラボレーションし、そして、その成果はいかがでしたか?
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チャンドラカント :アーティストにとっては、どの国にも国境はないのです。なぜなら、音楽は普遍的な言語だからです。私が大きくなって、 1976 年にインド音楽でプロとしてのキャリアを始めたころ、ラヴィ・シャンカール師はシタールを西欧に持ち出し、インドの音楽と文化をそこに広めました。日本とオーストラリアではインドの音楽と文化が一般的でないことを私は知っていました。ですから、 1990 年代にこれらの国を訪れる機会を持ったとき、両国でインドの文化・伝統を広めるために、私のもてる音楽的な能力、才能のすべてを注ぎこもうと決意したのです。
したがって、この2カ国のアーティストたちとコラボレーションをしてきています。 1977 年には長野県で日本太鼓と競演をしました。 2000 年には太鼓、尺八、琴、三味線とも競演しましたし、いくつかのコンサートを日本全国で行いました。すべてのコンサートが大きな成功をおさめました。
オーストラリアでは、ギター、サクソホン、ディジュリドゥ、バイオリンと競演しました。これらのコンサートは私のオリジナルの作曲でやりました。ツアーで、曲はオーストラリア人に愛されました。曲のいくつかはダルシャナムのウェブサイトにあります。日豪でのすべてのジョイント・コンサートは聴衆や批評家やファンから高い評価を受けました。
♪文化の懸け橋に♪
問い :シタールが欧米のポピュラー音楽におよぼす影響についてどのようにお考えですか?
チャンドラカント :伝統的な楽器が、欧米のポピュラー音楽に影響するのはいいことだと思います。シタールによって多くの欧米人が東洋と西洋の音楽構造の違いを理解してきているからです。これは2つの文化の間にあるギャップに橋をかけるものです。言うなれば、シタールはインド文化の大使なのです。
問い :この影響は、東洋の音楽にもいいことですか?
チャンドラカント :もちろん、そうです。新しい世代のテイストが発達させられ、偉大な作曲家たちの創造性が挑戦を受けています。インド文化はきわめて柔軟なため、世界の最良部分を受け入れ、導入しています。インドでは 1950 年代後半に、欧米音楽を受容し、偉大な作曲家たちはさまざまな作曲で実験をしてきました。事実、欧米音楽ではシタールはオーケストラにあまり使われていないと思います。それは個人の演奏として一般に知られているのです。しかし、インドでは映画産業の有名な作曲家たちは、シタールを欧米の楽器と一緒にオーケストラの形で使っています。そして、それらのなかには 1950 年代からずっとポピュラーなゴールデン・ヒットになっているものもあります。欧米の作曲家たちも、シタールを同じように使い、この意味でのコラボレーションをしていけばいい、と願っています。
♪音楽こそ人生♪
問い :音楽はあなたにどのような意味を持つのでしょう?
チャンドラカント:音楽は、私の呼吸であり、私の人生です。私はいつも音楽の世界に生きています。自然の音楽を、私を取り巻くものが奏でる音楽を耳にしていますし、(音楽セラピーで)私がどなたかを診る場合、音楽は人にとって特別であると感じています。実際、だからこそ日本、オーストラリアで多くの人々のために音楽を使って癒しを行うことができているのです。私は身障者の方々に幸福になっていただくために音楽による試みをしていこうと思っています。シタールの音を私は好きなのです。長年の間、シタールを弾き続けていますので、シタールを奏でるのはたいへん自然であり、楽しく、たやすいのです。それは子ども時代の私のおもちゃなのです。シタールを手にすると、私は世界を忘れてしまうのです。
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